昭和48年03月10日 月次祭



 御道の信心が分かるという事は、天地の親神様のお心が分かるという事なんです。ですから、天地の親神様のお心が分かれば分かるほど、その神様の思い、お心に添わせていただくと言う事になる。また、ならなければ、御道の信心にはなりません。金光様のご信心は、天地金乃神様のお心を分かること。そして、そのお心を、体しての生活。いわゆる、信心生活が出来るようにならなければならんのだ。その天地の親神様のお心を、ここでは、皆さんに、お取次ぎをさせて頂いておるわけであります。
 これは私の信仰体験、また教祖様のご信仰体験、又は教祖様が、天地金乃神様から、お受けになられた御教え。又は私が神様から頂いた御教えという様なものが、お取次ぎされる訳でございます。最近その、教祖の神様の、天地金乃神様から、お受けになっておられるご信用と言うか、もうこれにはもう本当に、ただもう言葉がないですから。その偉大さに、只々恐れ入ってしまうというのが、昨今でございます。
その神様の思いが、いよいよ、そのようにして、偉大であり、大変な事だなと。人間のもう誰しもが、ここのところを気付かせて貰い、分からせて貰うて、真の幸せな生活。いわゆる、神様も喜んで下さり、金光大神も喜んで下さり、私共も喜べれる信心にならせて頂きたいという願いを、先ず立てなければならない。そして分からせて頂く事は、もうこの世の中にね。天地の親神様の切なるまでの、氏子信心して、おかげを受けてくれよと言う願いに、満ち溢れておると言う事でございます。
 だからそういう、神様の切なる願いが、天地に漲っておる。それを私共が頂くと言う事が信心なんです。それには、分かれば分かるほど、一切感謝の対象であり、お礼を申し上げなければならない事ばっかりであると言う事です。先日の大和さんのところの宅祭りの時に、大和心と言うこと。椛目の、まぁだ時分でした。もう十何年もなりましょう。御結界奉仕をしておりましたら、神様から大和心と言う事を頂いた。それも何か、非常にこう、優雅な字で頂いた。
 でだからそれを頂いたのを真似して、私がここの御結界にあります。手当たり次第のこう、皺よった紙でしたけれど。それに今頂いたばっかりのを書いた。大和心と書いたところへ、大和さんたちが、夫婦で参ってみえた。大和と言うのは、大和と書いてある。ははぁこりゃ、大和さんあぁた方に、上げなきゃならんのだ。まぁそれを、私は大きな和の心。和らぎ喜ぶ心の和の心の、大きな心だというくらいに頂いておった。
先日から、宅祭りに、あちらに参らせて頂きましたら、その大和心と言う、その十年ぐらい前に頂いたのを、綺麗に額縁に入れてから、御神前に上げてある。はぁこれはもう、本当に、大和心と頂いた、あの事を思うて、大体大和心とは、どう言う事であろうかと、と思うたらね。大和心とはお礼を言う心と。勿論一切の事にお礼をいう心が、大和心だと。又は私は、今日気付かせて頂いたのは、天地の親神様のお心、そのものが大和心であると言う事である。
 だからその、神様の心を心としてというところに、信心があるのです。そげん神様のごつならんでん良かろうと言う事じゃない、金光様のご信心は。神様の心を体して、私共が生活させてもらうというのだ。わが心が神に向こうていくと言うほどしの信心ですから。神の心を心として、親の心を心としての人を、親孝行と申します。だからね。神の心を心としての生き方の出来れる人を、私は神様のご信用を厚く頂けれる。いうならば御神徳を頂いていけれる人だと思います。
 ですから神様の心を、いわゆる心としていく信心ですから、神様の心を先ず分からなければいけない。それも広く、深く分からせて貰わなければならない。それをこれはもう、私がもう本当に、偉大だという言葉で申しますように、教祖の神様が、天地の親神様の心を、ここまでもはあくしておられた。こういう深いところまでも、頂いておられる。なるほどお釈迦様もキリスト様も、知ってはおられなかっただろう、説きえていなかったというところをです。
 もう見事に私共に、教えておって下さるのでございます。昨日の御理解といい、今朝からの御理解を頂いてみると、その味わいをいよいよ、深くするのでございます。ところが、私共は、自分に都合の良いことは、お礼を申し上げておりますけれども。自分に都合の悪かったりすると、お礼は言わん。腹を立てとる。不平を言いよる。不足を言いよる。不満を思いよる。いやもう何時もずうっと、これだけは心の中に、その不平不足を思い続けておると言う様な事がある。
 例えば親が子供の事に対して、そのあぁあってくれれば良いのにと、言った様な思いを、ずうっと思うておると言う事は、不平不足を思い続けておる事でしょう。この不平不足を思い続けておる事、その事がおかげにならんのです。私は最近本当に大和心とは、全ての事にお礼をいう心だと。しかもその心が、神様のお心だと分からせて頂けば頂くほどです。本当に一切の事にお礼が言えれる、一つの心のゆとりというもの。
 教えを本当に頂いておいた、それが実行は出来ないけれども、昨日の御理解じゃない、頭にだけは頂いておけと。知っておくだけは知っておけ。これが本当だと言う事を知っておけ。そすと、その時に出た問題をですね。本当は、こうなんだけれどもと、その本当な事へ、自分の心を向けていくことが出来る。まぁその、二三のことを聞いていただきました。もう本当に、始めの間は熱心に、親先生親先生と言うて、よう言うならば、その親先生になついての信心が出来ておった。
 五年経ち十年経ちする頃になったら、段々もう親先生が言う事が分かってきた。もう親先生はもう、磨けとか改まればっかりじゃけん。もう話は聞かんでん良かち言うごつなってきた。所がこちらがちっと歯がゆうなってきた。この人ばかりは良か信心になるじゃろうと思うとるのに、あんまり期待が大きいもんですからね。それで私の心の中に、穏やかではない、いわば不平不足の心が顔を見ると、あんたそげな事ではいけんよと言った様なまぁそうは言わんでも、御理解にそういう様な御理解を説かせて貰う。
 はぁ先生がだから、当て付けち言いよるばいなぁと言う具合に、だから相手は頂きよらんもん。だからこうなったらね、受けるほうもおかげを頂かない。私もおかげを受けない。絶えずそして心の中に、本当にまちっと、どうかましな信心してくれりゃ良いのに。いかにもそれは、親が子を思う親心ではあるけれども、それは、神の心には叶わない心なんだ。そこで、私は気が付いた。
 ははぁ本当にそのお父さん、お父さんと言うて来るときにはね。まぁおやつを貰ったり、何かするけん言うてきよるとじゃけども。この頃はもうおやつなんか貰わんでん良か。もう自分で働きも出来る。言うなら親の言う事は分かっておる。もう理屈は俺の方が詳しい位にある。いわば丁度人間で言うならば、抵抗期と言うか反抗期と言う様なところに入っておるんだなと気付かせて貰った。してみるともうそこまで、成長しておると言う事なのですから。そのことに対しては、私はお礼を申し上げます。
 ははぁこれは、親を馬鹿にしておると言う事ではない。信心を疎かにしておると言う事じゃない。もうそこまで神様が、お育てを頂いておるのだ、そこからおのずと神様が、また良い方向へお導き下さるだろう。そのことをお願いさせてもらいよったら、そしたらね、昔は、今もありますね、ラムネと言うのが。ラムネのこうやって、あのレッテルが上に貼っちゃるもんね、ラムネは。あれをこうやってはぎよった。そしたら中が玉落ちになっとる。上のこうレッテルは紙です。
 紙をこうやって剥ぐ、そしたら玉落ち、本当に自分がここでおかげを受けんならん、べすっと言いたいような時にです、玉落ちでは甘いばかりで、もうそらそう言う事にも、また直面する。そしていうなら、信心というのは、それこそ胸がつかえた時に、ラムネを飲んで、べすっと下がるように、自分の心が治まってくるほどしの、おかげを頂けるくらいの信心でなからなければ、値打ちは無いと本人が、だんだん気付くようになると、こう教えてくださった。
 ですから様々な、次々とそういう意味でのお気付けも、こう頂いておる訳である。神様のお働きと言うものは、有難いなと思うんです。これは昨日でした。沢山お参りをしてくる中には、様々な人があります。これはどうも私が見ても、これはちっと仲が良うなり過ぎよる。はぁもう過ぎると言う事は、やっぱいけない。けれどもこれが男女の間である場合には、それが恋愛と言う事になってくる。人がもうどうか、とやこう言いよるぐらいじゃろうとこう思う。
 だからこれは、私から一口言うとかにゃいけんだろうか。やるならやったっちゃ良かばってん、あんまり人目に、目立たんごと派手にやりなさんな。まぁそういう風にね、まぁ一つ言うておかにゃいくまいかと、私は思うた。そしたらね、今あのテレビで夏目漱石の「門」と言う映画が映画化しておる。あれはわが愛の記かなんかと言う。その一場面を私が見ておった、その場面を頂くんです。これは主人公がです友達のね、友人の奥さんと心やすうなるんです。ですから、もうそのことで友人とも絶交になる。
 もうその自分の里の親からは、もう本当にお前も見損なったと。これだけどげな、それこそ女でも、貰えれる立場におりながら。人の嫁後にどん、手を付けちからち言うちから、喧しゅうその、おごってこられる。もう親でもない子でもない、もうお前のような馬鹿はおらんと言うてその、使いに来た小父さんが、言うて帰るところがございます。そうして、その次の場面にはですね。それがもう何年後でしょうか。のと場面があってです。もう実に夫婦仲良う、円満な家庭を築いておるというところを頂いた。
 お前は馬鹿じゃないか、ちっとぼうけておらんかと言う様なこともです。ある意味において、これは信心させて頂いて、信心の一つの神様の、大きな神様の働きを受けて、その催しを受けて、あぁなってこぅなっておるのであるから、それが本人の本当の幸せの事になっていけば良いじゃないか。それをほんなら、私がそげな事じゃいかんばい。そげな事止めんのと、言うておったら、その神様の素晴らしい働きを、私が邪魔をすることになる。その神様の、幸せにして下さろうとする過程なのだから。
 ただちょっとそっと、間違いがないように、本当の幸せになっていくようにと、祈っておけば良いのであると言う事を頂いて、私の心が治まった。問題は自分の心が、有難く治まって、行くと言う事なんだ。これだけは胸に一物、ずうっと思い続けておると言った様な事が、あってはならない。もう一つである。もうこの人の信心は、もう素晴らしい。もう本当に素晴らしいと思うておった。ところが最近この人が、裏表があることに、そういう面を、ちょいちょい感ずるようになった。
 どうぞこれはね、誰彼じゃないです。自分の胸にも、手を置いてみなければいけない事です。ね。裏と表があってはいけない。これは折角のこれだけ、いうならばたいした信心をさせてもらいよって、私の目の前だけは立派にやるけども、私の目の届かんところでは、それを疎かにしておると言う様な事では、信心ではないではないか。ここ二、三日、それを思い続けておる。その思うという事がいけないのである。大和心と言うのは、全てのことに、お礼をいう心なのですから。
 そこで私は、その事を神様に、お願いをさせてもらいよったら、あのこんな大きな竹輪を頂いた。身の厚い竹輪があるでしょう。こんな大きな竹輪ね。あの穴の小さい、あらもうこの頃、大きゅうなったつは竹輪の穴と、何とかと言われるが。あの今でもそんなのが、こんなのがある。大きな竹輪でね。中の穴はこうまい。大きな身の厚い竹輪を頂くんですよ。これほど、身のある信心をしておるのであるから、少しぐらいはこう、向こう先を見てやれと、こっちのほうが。
 そげん親先生のごつ、前でばっかりのごと、良う出来るはずが無いじゃないかね。影には、やれやれ、一服ち言う事もあろう。今日はもう親先生がおらんけんで、今日はと言う様な事もあろうじゃないかと。そこはです、私がいよいよ大きくなって、いわば向こう先を見てやれち言うごとある。竹輪ち言う事は。レンコン食うてやれと言う事である。そしたら、そう言う事では、おかげは受けられんぞ。そう言う事では惜しいじゃないかと、例えば責める心の間は、おかげは受けないこれどもです。
 私自身の心の中にです。そういういうならば、レンコンを食うてやれれる。向こう先を見てやれれる心の状態、ゆとりの心が出来てくることから。私も助かれば、またその人も、良い信心に、またなっていくというおかげが受けられるんだと言う事。私共の心の中に、不平があり、不足があり、口には言わんけれども、何とはなしに、何時も、心の中に思うておる。お母さんが、あげんあってくれると良いけれども。子供があぁあってくれると良いけれども。
 ここだけはもう本当と言うて、辛抱しておるところがある。辛抱しておるその心が、おかげにならんのだ。それが信心で解けていかなければいけない。大和心と言うのはね。一切のことに、お礼を言う心と言う事は、その大和心そのものが、天地の親神様のお心であるから。いわば天地とのもう絶対無二の調和の心と言うものが、そこに生まれてくる。いわゆる大調和心である。天地とのこの辺がね、信心のある者と、無い者の違いが、はっきりしてくるのは、この辺からだと思うのです。
 心配になる普通からいや、心配になるけれども。昨日の朝の御理解に自分の思うようにばっかり、なると言った様な信心は、そらほんなおかげじゃないです。大調和から、生まれてくるおかげじゃないです。神様が喜んで下さり、神も喜び金光大神も喜び、また私も喜べるという様なおかげじゃないです。神様が下さるおかげと言うのはです。もうそれこそ、夢にも思わないほどしのおかげに進展していくことなのです。
 それがいわゆる天地との大調和を計らせて貰うて、天地の心を心として、天地の心に添うて行こうという生き方。そういう生き方を身に付けると言う事。身に付けて行きよる、その過程であってもです。こら言うとかにゃいくまいとか。心に人を責めるとかね。腹を立てるとか、ただぐうぐう言うて、自分が辛抱しておるとかと言うのがあっちゃならん。そのことも、よく一遍つぶさに取り出させて頂くと、みんなお礼を言う事ばっかりなのだと言う事に気づかせて貰うて、おかげを頂いていかなきゃいけない。
 そこから、生まれてくるおかげを、本当のおかげと言う。いわゆる願い以上思い以上のおかげに進展してくるというおかげで無からなければつまらん。昨日の朝の御理解の中にもね、七七四十九とこういう。それはもう計算づくである。七七四十九だから始終苦である。何時も苦である。この世は苦の世苦の世界だと、もう諦めてしもうておれば、それで良いけれども、私共はこの世に、極楽を顕現していかなければいけない。神様の思いを、ここに表していかなければならない。
 神様の願いをここに現すと言う事は、こんなに有難い日々が、過ごさせて頂けれる。これが、この世での極楽であろうかという気持ちを、心に開いていくということ。それはね、自分の思うようになると言った様な事の時には、もうあれを自分の思うようにしたい問題が、もう次には出来てきておる。だからそういう小さいおかげではなくてね。七七四十九とこういうのだから、何時も始終苦だ。何時も苦労だと。何時もこの世は苦の世、苦の世界だと言う事になる。
 だからそういう問題に直面した時にです。私共が一歩下がって考えてみる。一歩、自分というものを、本気で掘り下げてみる。そこからはぁなるほどと言う心も生まれてくりゃ、はぁここが、日頃頂いておる教えを頂くのは、ここだと分かってくる。その七七四十九から、十を引かせて頂くという、ゆとりが要るのが。そこには残るのは三十九である。三十九と言うのは、サンキュウ。いわゆる有難うと言う事である。
 その問題その、例えば難儀と感じておる問題を、一歩自分の豊かな心に下がってみて。例えば、子供が言うことを聞かぬというのでも、どうして言う事を聞かぬかと言うのではなくて、自分が下がってみると、なるほど自分の言う事を聞かないはずだ。いや聞かないことのほうがおかげなのだ、有難いのだと、分からせて頂く時にです。神様におゆだねするほかには無い。そこから生まれてくるのが三十九なんだ。自分のそのところから、十引いてみることなんだ。そのゆとりが要る。
 そこに一切がサンキュウと言う、有難いという答えが出てくるのだ。そういう有難いという心をね、何時も答えに出しながらの生活で無からなければならない。そういう生き方がです。神様の心を心としての生き方。神様の心を分かった者の信心生活と言うのは、そう言う事であると思うのです。先ほど、光橋先生が、あの五つの願いをさせて頂く様になって、家庭の円満を願わせて貰えば貰うほど、人を責めると言う事は金輪際しないぞと、もう、毎日そのことに取り組んでおる。
 ところが今朝から何か、子供さんがそのお菜の口上を言うたかなんかげなけん。口上言うた。いわゆる責めた。ところがたったそれだけのことが、問題が大きくなって、その息子だけではなくて、その小母さん達にまでこうやってその、不愉快な思いをしてもう出るの出らんのという様な問題にまでなってきた。そうしよったら、息子が今度、良かところへ就職しとったところが、その就職先のほうから、お断りの手紙が来た。
 もう神様の働きには恐れ入るて。光橋先生有難いことねと。あんたがもう決して人を責めないという、その修行が如何に神様が、喜んで下さっておるかと言う事が分かる。それを、受けて下さっておる証拠が分かる。だからこれから先でも責めたと言う事に、そういう犠牲を払わせてでも、神様がお気付けを下さると言う事は、有難いねと言うて、お祭り前です、話したことです。私共が本気で本気で、一切のことに有難いという答えを出させて頂く生活にならせて頂こうと、決め込ませて頂くとです。
 そこに有難くお礼を申し上げなければおられない事態になってくる。そこから、生まれてくるところのおかげがです。神様のいわゆる心を心としての、信心ですから神様が、また私共の心を心として、私共が夢にも思わなかったほどしのおかげが進展してくる。展開してくるわけです。そういうおかげを頂かせて貰うという事が信心。それを私は、今日は、具体的にね。もうそんなことは、責めることにもなるまい。
 そんなことは、バサラか、こんくらいのこつには、お礼は言わんでん良かろうという様な事柄の中にでもです。私は今日は三つの例を話しましたね。言う事を聞かぬ。これはもう、成長しておる印だ。どうも目に余るような状態がある。けれども神様から頂くと、それは、むしろお礼を言わなければならない、幸せの道を歩いておるから、踏み違えんように、ただ祈っていくだけでいいのだ。してみるとお礼を申し上げていくこと以外には無いのだ。という様にですね、その具体的な例を持って。
 私が成程大和心と言うのは、一切の事にお礼をいう心と言う、いわゆる一切のことに、お礼が言えれる事の日々。そういう素晴らしい信心をです。教えておってくださる。教祖様のことを思うとです。いよいよ、その偉大さに、もうそれこそ、驚いてしまいますね。私共は、信心とはね。そういう、驚きの生活に入ること。そこからです、恐れ入った生活が出来るようになってくるのです。
 今朝からの御理解の中にもです。本当に日々こうやって、お生かしのおかげを頂いておると言う事がです。本当に有難い。今日もお生かしのおかげを頂いて有難いという、この有難いが、段々、育っていくならばです。もうそこから死生の安心と言うものは、生まれてくるんだという御理解を頂きました。だから私共が、今日生きておると言う事にも、本当に、心の底から、お礼の言えれる信心をさせて頂く事によってです。
 信心の究極の眼目とも言われる、私共が、死ぬると言う事。これはもうどんな大宗教家でも、ここのところに焦点を置いて、様々な修行したものです。成程私共が日々今日、お生かしのおかげを頂いて有難いという心がです。湧いたらです。もう例えば痛いこともです。生きておる印である。痒いことも、生きておる印である。もう生きておるという、その一事だけでです。
 一切がお礼を言わなきゃおれない事ばっかりになってくるのである。こういう信心を頂いていくならです。なるほど、それこそ、死んでいく時にも、神様にお礼を言うて死んでいけるような、大安心のおかげ、そういう死生観までもが頂けると言う事を、今朝から頂いたのでございますけれども。信心の、究極の目指しと言うものがです。間違いますと、ただ、自分の思うようにならなかったというだけで、信心をおろそかにするような事になってくるのでございます。
   どうぞ。